三業に拘泥してはいけない

「三心料簡事」が、真宗文献、特に高田派の文献と密接な関係にあることは、
永井隆正氏・真柄和人氏・曾田俊弘氏論文によって指摘されていて、
松本史朗先生の『法然親鸞思想論』で、要領よくまとめてありますので、よかったら見てみてください。

確かに仰るように、親鸞聖人のように厳しく自己を見つめた上での「悪人正機」ならば、
「凡夫正機」とも矛盾はないんですよね。
でも実際には、そうなってないことが多いですよね。。

あと親鸞聖人が「御消息」で、

 薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候わずとぞおべえ候ふ。
 仏の御名をも聞き念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、
 後世のあしきことをいとふしるし、
 この身のあしきこをばいとひすてんと
 おぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。

というように造悪無碍を明確に批判しているわけですが、
それを引用している『歎異抄』十三章って、
引用してることはしてるけど、なんかそれを再度批判して、

「そういうこと言うのも本願ぼこりだ!」

みたいなことを言いますよね。
以前Rさんが、この辺りを引用して「三業に拘泥してはいけない」って言ってた時から、
このあたりが凄く、気になるんですよね。

あと「悪人正機説」って、自分自身が「悪人」って自覚しないと救われないという説であって、
自分自身が「善人」という意識を持っている人は救われないという説ですよね。
そのあたりが、凡夫をメインにしていながら、聖人も「傍ら」にして、「遠きを挙げて近きを摂する」という「凡夫正機説」とは、
微妙に違う気がするんですよね。